ここで、たとえ話をしよう。よその国の話である。
その国の警察は、清潔かつ能率的であるが、指導者が若いせいか、大義のためには小事にこだわらぬといった空気がある。そんなことから、警察の一部門で、治安維持の完全を期するために、法律に触れる手段を継続的にとってきたが、ある日、これが検察に見付かり、検察は捜査を開始した。
やがて、警察の末端実行部隊が判明した。ここで、この国の検察トップは考えた。末端部隊による実行の裏には、警察のトップ以下の指示ないし許可があるものと思われる。末端の者だけを処罰したのでは、正義に反する。さりとて、これから指揮系統を次第に遡って、次々と検挙してトップにまで至ろうとすれば、問題の部門だけでなく、警察全体が抵抗するだろう。その場合、検察は、警察に勝てるか。どうも必ず勝てるとはいえなさそうだ。勝てたとしても、双方に大きなしこりが残り、治安維持上困った事態になるおそれがある。
それでは、警察のトップに説いてみよう。目的のいかんを問わず、警察活動に違法な手段をとることは、すべきではないと思わないか。どうしてもそういう手段をとる必要があるのなら、それを可能にする法律をつくったらよかろう、と。
結局、この国では、警察が、違法な手段は今後一切とらないことを誓い、その保証手段も示したところから、事件は、一人の起訴者も出さないで終わってしまった。検察のトップは、これが国民のためにベストな別れであったといっていたそうである。こういうおとぎ話。
わが国でも、かりに警察や自衛隊というような大きな実力部隊を持つ組織が組織的な犯罪を犯した場合に、検察は、これと対決して、犯罪処罰の目的を果たすことができるかどうか、怪しいとしなければならない。そんなときにも、検察の力の限界が見えるであろう。もっとも、そのときはそのときで、どこかの国でのように知恵を働かす余地がないでもないが。
(『検事総長の回想 秋霜烈日』伊藤栄樹著、朝日新聞社、税抜き1000円。165〜167頁)